福岡生き物新聞について
福岡生き物新聞は、汽水企画の自然探究活動を記録、発信しています。読むことで都市生活の中でも自然を思いだし、生き物である自分を感じることができる「生き物新聞」にしていきます。
僕が「福岡生き物新聞」で目指すのは、自然とつながり続ける大人になることです。
子どものころに持っていた、虫を捕まえたい、野の花を摘んで飾りたい、魚を捕まえたい、川を遡った先にあるものを見たい、という好奇心を、大人として持ち続け、大人の感性と知識、力で改めて見つめ、満たしていきたいのです。
自然を知りたいという気持ちは、実はもともと人類が普遍的に持つこころの働きではないでしょうか。現代社会では自然の摂理を感じづらい生活をしているため、その気持ちが形を変えたり、隠れている場合が多いだけです。人類の祖先はアフリカの熱帯雨林から草原に生息地を広げ、その先にも移動を続けて世界中に広がっている。それを支えたのは、新しい自然環境に常に興味を持ち、生活に取り入れていく自然環境への好奇心であったと言ったら、少し大げさかもしれませんが。
現代では科学技術によって、直接自然や生き物を知らなくても生きていくことができます。でも、食べられる草のことを知れば、どうしてもお腹がすいたらその草を食べよう、というちょっとした安心に繋がるかもしれません。免疫やアレルギーの仕組みを知ることは、自分の体を医療や薬任せにせず、自分で食べ物や治療を選択することに繋がるかもしれません。脳や生態系の複雑さを知ることは、検索してもわからないことに、まだまだこれからの人生で到達する余地があるという冒険心をくすぐってくれるかもしれません。
このように、私たちを少しずつ自由にしてくれる、本当の知識や知恵としての生物学や自然科学を学んでいきたいと思います。それは、役に立ったり、お金が儲かったりということではなく、大きなものの一部であることを実感し安心感を感じたり、景色や経験を二重三重で味わったりというような、たいへんな人生の面白みに繋がります。
自然を知ることで、日々の生活を豊かにし、さらに自分たちが生きるための哲学も育てていきたいと考えています。
自然の知り方には、多様なルートがあります。
原始的で、最も理想的な人と自然の関わり方は、狩猟採集時代のように生活圏の自然を理解し、その一部として自然への理解と人間の生活の質の改善、それを続けていくための環境の維持が密接にリンクされていることだと思います。もちろん、現代ではそのような自然とのふれあい方は難しいですし、仕事や日常生活で自然に触れながら体感して学ぶとしても時間は確保しづらいです。本やインターネットの力で先人の知恵を得ながら野に出ることで自然の中にいる時間をより濃いものとするというような、現代ならではの方法で、自然との距離を詰めていきたいところです。
また自然を知るためには外に出て、生き物や自然環境に触れ、観察し、食べてみたりすることも重要です。さらにその先に、自然と人間との関わり方を捉えなおし、現代生活にいかに落としこむか、どう実践していくかということにも探求を広げていきます。
ですので、「福岡生き物新聞」は、視点やスケール、時間軸のばらばらな、ごった煮のようなものになりそうです。こと、自然と人のかかわり全体を扱おうとするとき、完全な客観性というものは持ちづらいものです。僕の目や、頭、身体を通しての自然を記録していくことで、読む方にとってもそれぞれの自然観を構築していく助けになるようなものになればと思います。
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃ももいろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
『注文の多い料理店』序
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗らしゃや、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹にじや月あかりからもらってきたのです。
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾いくきれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。